釜石市にボランティアバスが行く!レポート その3

 

≪矢浦局長の講話と「消えたふるさと」上映≫

 終了後、ボランティアバスのメンバーはホールに集まり、釜石社協の矢浦事務局長から釜石の街が津波に襲われた時のお話をお聞きしました。

 「昔から『津波てんでんこ』と言い伝えられ、それぞれに高台に逃げることが大事なことは誰もが知っている。しかし、民生委員やヘルパーは対象の方々のことが心配で逃げるに逃げられない。そうして犠牲になった方々もたくさんいる。釜石社協でも、利用者のところに向かったまま連絡が取れなくなったヘルパーが一人おり、後日遺体で発見された。逃げるに逃げられない人がいるんです。」

「社協が入る9階建てのビルは、避難所に指定されていたわけではないが、震災・津波の直後は1千人ほどの住民が避難していた。避難所ではないので、食糧も水も、毛布もない。自家発電装置も浸水し、電気もない。携帯電話の明かりで階段を上り下りした。トイレも使えず、皆が紙オムツを着用することも言われた。」

など大津波を直接体験された局長のお話に皆、耳を傾けていました。

 続いて、局長さんの奥様のご実家がある両石という地区に住むお知り合いの方が撮影されたDVD(消えたふるさと 釜石 両石 H23.3.11)を見せていただきました。

 両石湾の漁港の水が引き、そして徐々に水が増してきたと思ったら、黒い塊のような津波が押し寄せた。10mの防潮堤のすぐ内側の道路には、まだたくさんの自動車が行き交っている。防潮堤によって、海の様子が見えない。撮影者の「津波が来るぞぉ!逃げろぉ!」という声。警報とサイレン。やがて津波は防潮堤を越えた。先ほど道路を走って行った白い軽トラックが津波に押し流されてきた。何艘もの漁船が防潮堤をはるかに越える津波に乗って街へと押し流されていく。「地獄だぁ!一瞬で何もかも失くなったぁ!」町の家々も流されていく。

 引き波に変わると、家々が、自動車が、船が、海へと流されていく。街ごと海に流されていく。

 矢浦局長さんが、すぐ手前に映し出された赤い屋根の家を指し示し、「これは、家内の実家です。義母が住んでいましたが、たまたま病院に出かけていて、流されずに済みました。」と説明される。その家は、土台から浮き上がり、大河のような津波の中をそのままの姿で山側に流れされていく。そして間もなく元の場所近くに戻り、そのまま海へと流されていった。

 山肌には、3階建ての建物の屋上と同じ位の高さに、くっきりと津波の跡が残されている。

 何度目かの津波で、防潮堤が崩壊した。崩壊した後の津波の引き波で、ガレキはすっかり流されていく。一晩中、津波は寄せては引いていた、とのこと。

 約40分の映像と矢浦局長さんの説明に、皆さん、声もなく、見入り、聞き入っていました。

 「家も失い、仕事も失い、家族も失った人がたくさんいます。復興を目指していくためには、皆さんの継続的な支援が必要となります。」と締めくくられました。

 

 会場は、現地のボランティアさんらによって、ほとんど片づけられていました。説明を受けた部屋を片付け、持ってきた資材を手分けしてバスに積み込み、矢浦局長、菊池係長、老人センターの所長、施設の職員の方々に見送られ、会場を後にしました。

  

 

 すでに陽が沈みはじめていました。

 老人福祉センターから釜石駅までは、国道283号線を車で20分ほどかかりますが、パチンコ店や飲食店などのネオンが眩しかった。しかし駅を過ぎると暗い街並みが続きます。よく見ると、残された建物のほとんどが、1階部分は柱だけで筒抜けになっていました。宿泊先のビジネスホテルもやはり1階部分が津波により壊され、仮設の壁で覆われ、裏側の通用口だったと思われる階段を昇った2階に仮設のフロントを置き、営業していました。津波の前は「飲み屋横丁」があり、商店街で賑わっていたといわれる交差点で、復興の足がかかりとして、2軒のホテルが営業しています。もう1軒のホテルの1階はコンビニになっており完全に営業していました。

 港の方角から「釜石まつり」のお囃子が聞こえていました。

 ホテルでは、入浴はできますが、食事はまだできません。荷物を置いて、再びバスに乗り込み、予約しておいたファミリーレストランに向かって、夕飯を取りました。ホテルに戻るまではアルコールは禁止としました。

 夕飯を済ませホテルに戻ると、夜の釜石の街を視察に出かける人たちもいました。

「ホテルの近くで数軒の飲み屋が開店していて、地元の方々などで賑わっていた。」

「駅まで歩いて行ったけど、街灯もなく真っ暗な中、津波で1階が筒抜けになった店舗が続いていた。」

「広い道路に面したところはまだいい。裏道に入ると本当に真っ暗だった。」

などの感想が聞かれました。